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これからの時代の共感 ~共感とは何か~

執筆者の写真: エンパシー協会 日本エンパシー協会 日本


こんにちは、日本エンパシー協会認定講師のはづきです。

今回は私がコラムを担当します。


認定講師をしているとよく言われることがありまして。

「エンパシーって初めて聞きました」

「エンパスと同じですか?」


今回は、この質問にお答えするとともに、なぜ今の時代に共感は大事なのかをお伝えしたいと思います。

ぜひ最後まで読んでください。


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エンパシ―って、初めて聞きました


「共感が大事」

「共感的に話を聞く必要がある」

など、コミュニケーションが重視される場面でよく聞く「共感」



共感とは、いったい何でしょうか。辞書を引くとこんな風に書かれています。



他人の意見感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち。

(goo辞典)



自分とは別の相手の気持ちに「自分もそうだ」と感じること、が、共感なんですね。

相手の話を聞いて「めっちゃ共感を感じるよ」「シンパシーを感じるよ」、なんて表現することが多いですかね。


では、英語で「共感」は、なんていうかご存じですか?


共感 = empathy

他人の感情や状況を理解し、それを自分のものとして感じる能力を指す。他人の立場に立って考え、感じることができる状態を表す。

(weblio英和辞典)


「共感」を英訳すると「エンパシー」とがでてきます。

自分とは別に相手の気持ちを「相手の立場に立って」「理解」し、感じること、が共感です。自分は自分でいる前提で、相手の立場に立って想像する共感、と言ってもいいかもしれません。


少しだけ、日本の共感とニュアンスが違いませんか?

そもそも日本でエンパシ―なんて言葉は日常では出てこなくて、「シンパシー」という言葉が共感として使われていますよね。


では、シンパシーとはどういう意味なのでしょうか


シンパシー(sympathy)

同情・共感・共鳴 ⇒ empathy

(goo辞典)


英語ではどうでしょう。


sympathy

同情、思いやり、あわれみ、同情心、弔慰(ちようい)、弔問、悔やみ、悔やみ状、同感、共鳴

(weblio英和辞典)



・・・なんだか、普段使っている「共感」の意味とちょっと違うように感じるのは私だけでしょうか。



「エンパシーはエンパスと同じですか?」


共感の説明として、「他人の意見感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち。」というのを読んで、どんな感想を持ったでしょうか。まあまあ、そうだよねという感想が大半だと思います。

私はエンパス体質(みたい)なので、これを読んだときに恐怖を覚えました。

数年前の出来事なんですが、当時仕事でたびたび指導されていたのが「支援者は相手と同じ景色を見ろ」でした。

私は障害者の就労の支援をしています。その先輩は「目の前の障害者がその場面ではどんな景色を見て、どんな心の動きがあるのかを感じろ」つまり共感しながら話を聞け、と言っていたと、今では理解ができます。でも当時、まだエンパシーを学ぶ前、私はエンパス全開(エンパスという言葉も知りませんでした)、「同じ景色を見ろ」なんて、自分をなくすとか、自分が相手に憑依される・乗っ取られるみたいな感覚になって、恐怖しか感じなかったんです。共感、つまり、同じ気持ちになることは、自分が自分でなくなることでしかありませんでした。

だから、共感することはすごく疲れるし、するのもされるのもとても嫌だったんです。


さて、この「エンパス」という言葉ですが、共感である「enpath」が語源です。ずば抜けて共感能力が高い人を指します。相手の立場に立って理解する、想像力を働かせる共感ではなく、「相手の感情があたかも自分の感情であるように感じてしまいすぎる能力」のことを言います。

・・・ん?

エンパシーとは、ちょっと違いませんか?

エンパシーは「相手の立場に立って理解する共感」でした。

エンパスは、相手の立場に立つどころか、「相手の感情が自分の感情になってしまっている状態」のように読み取れます。


共感・エンパシー・シンパシー・エンパス・・・なんだかよくわからなくなってきました・・・


そもそも、日本には「エンパシー」という言葉になじみはありません。この言葉自体知らない方がほとんどではないでしょうか。

日本で共感というと、似た言葉としてシンパシーが出てきます。共感とは相手と同じだよ、と感じることが共感ですから、エンパシーという言葉がない日本では「シンパシーを感じる」が同じ気持ちを表明する言い方になりますね。

しかし、そもそも英語で共感と言えばエンパシーのことで、シンパシーとは区別されています。

シンパシーは「同情、あわれみ」といった意味で使われます。ギリシャ語の「syn(ともに)」と「pathos(苦しむ)」が語源で、ネガティブな感情の共有に使われることが多いんですね。

エンパシーが「共感」という意味で、共感の中にも種類があり、分けられています。

なので「共感力がめちゃくちゃ高い人」が「エンパス」と呼ばれます。

日本ではエンパシーという言葉が使われないのに「エンパス」という言葉が有名になってしまったのでごちゃごちゃになっているんですね。



共感の意味を整理する


この、ごちゃごちゃしてしまったところを日本の実情に合わせて整理して整理しなおしたのが日本エンパシー協会なんです。

ここまで読んでいただいてお気づきかと思いますが、日本では、「エンパス」はシンパシーの能力が高い人のことで、人の気持ちを自分のもののように感じてしまう能力のこと。

日本ではシンパシーも「共感」の意味で使われていますから、協会では、

シンパシー「自分も同じ感情だよ」と示す共感

エンパシー「相手を理解しようとする」共感

としました。

シンパシーは感情的共感(emotional empathy)、エンパシーは認知的共感(cognitive empathy)と言ってもいいかもしれません。


シンパシーもエンパシーも「共感」ですから、どちらがいいとか悪いとかはありません。日本はシンパシーの共感が主流な社会なので、エンパシーは新しい概念と言ってもいいかもしれません。もしかしたら、今までの日本だと、エンパシーは必要がなかったのかも、とすら個人的には思うぐらいです。



なぜ「共感」が大事なのか


エンパシーは「相手を理解しようとする共感」なので、同じ感情にならなくても共感を伝えることができます。

人の行動の裏には感情があって、その感情は価値観に触れることで動きます。価値観はそれまでのその人の歴史によって創られていて、必ずと言っていいほどその価値観を獲得するに至った出来事があります。心理学で習った方も多いのではないでしょうか。


例えば、「私は、毎朝コーヒーを飲むとほっとした気持ちになります。この安心感をとても大切にしていて、このひとときだけは、誰も私を責めない時間なんです」といった具合です。


仮に「コーヒーは戦いの合図である」といった話を私が聞いたとしたら、シンパシーの共感では共感できません。同じ気持ちになれないですから。

同じ気持ちになれなくても、「相手はどんな価値観を持っているんだろう、どんな出来事があったんだろう」と想像して、理解をしようとすることで共感は伝えることができ、場を共有することができます。この心の動きと態度がエンパシーです。

同じ気持ちにはなれなかった場合、「言っていることがわからない」と伝えてしまえば場の空気を壊してしまうし、けんかになってしまうことだってあり得ます。でも、「そうだよね、その気持ちわかるよ」と同調してしまえば自分がもやもやした気持ちを抱えてしまうことになりかねません。

エンパシーはいわば「価値観の橋渡しをする共感」と言ってもいいかもしれません。


では、なぜ、このエンパシーの共感が認知されるようになり、社会に必要と言われるようになってきたのか。

個性を尊重する時代背景や、多様性を認める社会になってきたことなどたくさん理由はあると思いますが、競争社会に限界が来たことが大きいのではないかと思います。


競争の時代では、強いものが生き残り、弱いものは落ちこぼれていきます。

こんな考え方が主流だった気がします。

・成績がいい、運動ができる、友達が多いことがいいことという価値観

・受験戦争を勝ち抜き高学歴と高収入を手に入れるのがいいことという価値観

・目標に向けて一致団結しルールを重んじる価値観

・強いリーダーがグループを引っ張り成長し続ける価値観

・多数決、自業自得の価値観


令和の今からするとちょっと昔のこんな価値観から、新しい時代への過渡期なのではないかと感じています。


競争の時代は同じ価値観であることが求められ、実際大きな成果を上げて成長し続けてきました。違う価値観を排除すればそれでよかったのかもしれません。

同じ価値観の人のグループは居心地も良く、「そうだよね、同じだよね」というシンパシーを感じ合うことは安心感にもつながります。しかし、心はほかの価値観を受け入れられなくなっていき、違う価値観に触れて傷つくことを過剰に恐れるようになってしまいます。

価値観が多様化し(多様であることが良しとされるようになった)、違う価値観を排除すると少数派になってしまう可能性と向き合うことになった。違う価値観を受け入れる過程では、感情が動いて心が揺さぶられ、対立と葛藤を生む可能性もあるかもしれません。

この、違う価値観を理解しようと示し、「あなたはこうなんだね、私はこうだよ」と尊重し合うことができる潤滑油が共感であり、エンパシーです。



願いに自覚的になる


これからの「共創の時代」は、価値観が違う人同士が手を取り合い、ともに高め合う時代となります。

この時代に必要なのは、自分の価値観を理解し、自分が求めていること、つまり自分の「願い」に自覚的になることです。自分を認め、理解し、自分は自分であることを自覚しないと、相手を理解しよう、尊重しようという気持ちにはなれません。手を取り合うことも難しいかもしれません。


成長し続けることだけが正解ではない、成熟しきった社会で、人はどうやって生きる意味を、生きる実感を得ていけばいいか、そんな課題に私たちは直面している気がします。

これまでは、成長し続けることで感じてきた生きる実感も、欲しいものを手に入れることで実感していた豊かさも感じにくくなり、満たされない心は自覚のない攻撃となることも少なくありません。満たされない心は、傷つくことには敏感になり、傷つけることには鈍感になります。傷つくことを恐れる心はさらに閉じこもり、他人とだけではなく本来の自分との分断を生み、生きる意味から自分を遠ざけてしまうことになるかもしれません。


感情は心からのシグナルです。プラスの感情は満たされたとき、マイナスの感情は満たされなかった時や損なわれたときに湧き上がり、私たちの心を保っています。特にマイナスの感情を出すことを良しとしない日本人は、感情を抑えてしまいがちです。感情に蓋をすることは自分の価値観を押さえつけ、自分が何を満たしたかったかという「願い」をないことにしてしまいます。

もちろん感情は、所かまわずふりまいてもいいものではありません。大きくなってしまったマイナスの感情は、時に他人を傷つけ、自分の心にも大きな傷を負わせてしまいます。怒りに任せてむやみやたらと爆発させても満たされませんよね。感情は適切に処理をすることが必要で、協会では「心にもトイレが必要です」と表現しています。

満たされなかった心にはどんな願いがあるのか、どんな価値観を大切にしているのか。ひとりで見つめるのが難しかったら、誰かの手を借りてもいい。押さえつけていた自分の心を救ってあげたとき、人は生きる意欲が湧いてくるんだと思います。



共感は人のためだけのものではない

エンパシーは、相手を理解しようとする共感です。そこには相手を尊重する気持ちと敬意の気持ちが存在します。同時に、自分もないがしろにせず大切にする気持ちが同時に存在します。

共感はコミュニケーションの場面で相手にむけるものとして取り上げられがちですが、自分の気持ちに共感を向けることもできます。また、自分とは違う立場や状態の人のことを考えて組織づくりや街づくりをするときにも、未来の人のことを思って持続可能な仕組みづくりをするときにも、目の前にいない誰かに対する共感の気持ちが必要になります。


「共感力がない」と言う人がいます。確かにシンパシーは持っている能力の側面が大きいかもしれません。相手の気持ちにシンクロして自分のことのように感じることは得意不得意が分かれるところかもしれません。

対して、エンパシーは後から獲得できるスキルです。練習すればだれでもできるようになります。


自分も相手も大切にできるエンパシー。

コミュニケーション技法の獲得としてでなく、自分のためにも、未来のためにも学ぶ人が増えることを願っています。


(筆者:はづき/日本エンパシー協会認定講師)




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