近親相姦と構造主義
- エンパシー協会 日本
- 4月4日
- 読了時間: 7分

最近は色々な本を読むことにしています。実際にはオーディブルを活用しているので本を聴いているのですが、たくさんのことを知れる機会になっています。
最近すごく印象に残ったものがレヴィ・ストロースさんの構造主義です。
彼はかなりセンシティブな、そしてタブーに切り込んだ研究をしていました。そこに人間の、普遍的な要素やルールがあるのではないかと仮説を立てたからです。
その研究からレヴィ・ストロースさんは文化人類学から注目を良くも悪くも集め批判も受けながら、提唱した説はおおむね認められているようです。
その研究対象は近親相姦(インセスト)です。後に神話に研究対象を移しましたが、僕が印象に残っているのはこのインセストに対する研究です。
そもそも、そんなこと研究対象にするなんてよっぽど変わり者だなということと、そんな研究対象から人間の普遍的な要素が見えてくることなんてあるのか?という疑問が大きくありました。
さて、インセストは世界各地でタブーになっています。しかし、昔は当たり前に行われていたという時期もあったようです。
そして、インセストがタブーになっている要因は近い遺伝子での性交によって生まれる子の遺伝子は遺伝子異常が発生しやすく、それによる本能的な嫌悪感から来るものだということがよく言われます。これは、現代のある種の常識であり、感覚的にも理解しやすいものですね。
しかし、人類の文化全体を眺めてみると、未開の文化では、この近親相姦の近親にあたる部分がかなり広く取られていて、結婚できない対象が多くあり、発達した文化では近親が狭く捉えられている傾向にあります。
そして、ほとんどの文化で、平行いとこは結婚が認められていないにも関わらず交叉(こうさ)いとこは結婚が認められやすい傾向にあります。むしろ交差いとこは結婚が推奨されることも多いです。
平行いとこと交叉いとこ、という2つの言葉が出てきましたが初めて聞く方も多いのではないでしょうか。日本ではいとこに対して区別しません。
平行いとことは、親の同性の兄弟(姉妹)の子どものことをいいます。
例えば父親の兄か弟の子どもは平行いとこになります。
母親の姉か妹の子どもも平行いとこになります。
交叉いとことは親の異性の兄弟(姉妹)の子どものことをいいます。
父親の姉か妹の子どもが交叉いとこになります。
母親の兄か弟の子どもが交叉いとこになります。
日本では、どっちのいとこも区別しませんよね。平行いとこなのか交叉いとこかなんて些細な違いでしかありません。むしろそこに違いなんてないという意識を持っているでしょう。
しかし、人類の全体を見渡すと、ここが平行いとこだと結婚を禁止され、交叉いとこだと結婚が許されるという明確な違いがある。これは確かに興味深いです。
遺伝情報が似ていることによる本能的な嫌悪感だけでは、この平行いとこと交叉いとこの違いが説明できません。他にも何か理由がありそうです。
これを解明しようとしたのがレヴィ・ストロースさんです。レヴィ・ストロースさんは文化のことを交換と捉えました。
交換による関係性の構築が文化なのではないか、ということです。そしてその交換として3つのことを上げました。
①女性の交換
②財の交換
③コミュニケーションの交換
この①が今回のインセストに関わってきます。
この考え方が女性軽視ということで批判を浴びました。
では、この女性の交換とは何を意味するのか、インセストタブーとは何故生まれるのか、これに対してレヴィ・ストロースさんはこう答えています。
インセストタブーは人類が集団を維持するために身に付けてきた後天的なスキルである。
インセストタブーは人類が集団を作る前には持ち合わせていなかったが、文化が発展し集団を構築していく上で必要なシステムだったということです。
集団がいくつかある人間社会を想定してみましょう。イメージ的には村A、村B、村C、、、と村がたくさんあるイメージです。
そこではお互いに交流を保ちながら物理的には距離を置いてそれぞれ生活しています。
そこでは、財(食物や物資)、女性(結婚)、コミュニケーション(交流)の交換が行われています。
イメージしやすいですね。魚が捕れる地域と動物が捕れる地域とで魚と動物が交換されたり、村の女性が他の村の男性と結婚することもある。そしてそれらはコミュニケーションなしには成立しない。
そのときに女性は2種類に分類されるとレヴィ・ストロースさんは言います。妻か姉妹(文化によっていとこや親族)か、です。自分と結婚できる女性か自分と結婚できない女性(インセストタブー)です。
自分と結婚できない女性をよそに贈り物として贈り、よそからは結婚できる女性をもらう。この循環がなされることによって、結婚できる対象が増え、交流が増えることで他の村との対立を避けることができるというわけです。
では、具体的に見ていきましょう。
イメージしやすいように父系の文化で考えます。父系の文化では名字を父親から受け継ぎます。要するに苗字が同じになり、同じ苗字ということは同じグループというニュアンスが強くなります。
そうすると、平行いとこの場合、父親の平行いとこは苗字が同じなので同じグループというニュアンスが強く、閉鎖的で交換が起こりません。母親の平行いとこの場合は苗字が違うので禁止にはなりにくい。
レヴィ・ストロースさんが重要視したのが交叉いとこの場合です。
交叉いとこの場合はさらに2つに分類され、父方交叉いとこと母方交叉いとこで考えます。
ここからは複雑になるので詳細は省きますが、父方交叉いとこの場合は常に同じ集団との交換になり、村Aと村Bとしか交換が起こらずにそれ以上に広がりづらい。
母方交叉いとこの場合は村AからBへ。そしてBからCへ。CからからDへ、と続き最終的にAに戻ってくるという大きな循環の輪が出来てくるのです。
この村同士の大きな交換を作り出せるのが母方交叉いとこで、交換が起こりづらい、もしくは交換が起きても限定的なのが平行いとこや父方交叉いとこということになります。
この論文が発表されてから世界各地で観測された婚姻制度が例外はあれど、ほとんどがレヴィ・ストロースさんの言った通りであり、研究者たちを驚かせました。
この大きな構造はレヴィ・ストロースさんが言語化するまで誰も気付きませんでした。でも、人間という種族はこの大きな構造を確かに持って結婚相手を決めていたのです。
一人ひとり、もしくはその家が自分たちの判断でだれと結婚するのかを決めていると思っていたとしても、巨視的な視点で見ると、明らかな構造を持っていることがわかる。これが不思議なことだなぁと僕は思います。
自分含め、人は自分の行動を自分で決めていると思っています。
でも大きな視点で見てみるとそこにはパターンや何かしらの法則が見えてくる。インセストタブーというセンシティブなことからそれをありありと世界に証明したのがレヴィ・ストロースさんです。
そこから、インセストタブー以外にもそういった「構造」が人間社会や文化、経済など色んなところにあるのではないか?と考え始めた人が増えたのは言うまでもありません。それが構造主義なんだと思います。
更に、構造主義の後には「構造主義ほど構造ってそんな全てを決めてるわけじゃなくない?」という「ポスト構造主義」が台頭してきて、更にポスト構造主義ではまた説明し切れないことが出てきて「ポスト・ポスト構造主義」なんていうものが現代では言われているようです。ポスト、とは「次の」という意味ですね。
またどこかでポスト構造主義やポスト・ポスト構造主義についてもお話できたらと思っています。
僕が自分たちの中に在る構造はなんだろうな、とエンパシー的な視点で思考を深めたのは言うまでもありません。



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