【競争から共創へ ~弱さで繋がる~】共感コラム
- エンパシー協会 日本
- 10月1日
- 読了時間: 11分

「強くなれ」「負けるな」「しっかりしろ」――私たちは、そう言われ続けて育ってきました。弱さは隠すもの、克服するもの、恥ずかしいものだと教えられてきました。しかし、時代は静かに変わり始めているように感じるのは、私だけではないと思います。
SNSで誰かが「今日は何もできなかった」とつぶやくと、「わかるよ」「そんな日もあるよ」とリプライが並ぶ、そんな体験をしたことがある方も少なくないと思います。匿名のネット空間で、見知らぬ誰かの「無力さ」や「しんどさ」に、別の誰かが寄り添っているー今、多くの人が自分の「弱さ」を言葉にし、それをきっかけに他者と繋がっています。
もちろん、それは完璧な優しさの世界ではありません。共感が求められすぎたり、弱さが競い合いになってしまう危うさも孕んでいます。それでもなお、「大丈夫って言えない日もある」と口に出せる空気が、少しずつ社会全体に広がっているのを皆さんも感じておられるのではないかと思います。
弱さとは、本来、恥ではありません。それは「人間らしさ」そのものであり、弱さを知り、誰かと分かち合うことで余白を生みます。他人の痛みに気づける感受性も、誰かに手を伸ばせる勇気も、すべては自分の弱さと向き合った人にしか育てられません。
強くなければ繋がれない時代は終わり、今は、弱さをさらけ出せる人が、人の輪を広げています。壊れそうな声を持った人が、壊れそうな誰かに寄り添う。そんな風に、私たちは今、「弱さ」で繋がる新しい時代をむかえているのかもしれません。
人はなぜ「話したい」と「聞いてほしい」と思うのか
私たちはなぜ、誰かに自分の気持ちを話したくなるのでしょう。
そしてなぜ、ただ話すだけではなく「聞いてほしい」と願うのでしょうか。
人が話したいのは、安心・整理・つながり・表現という4つの欲求から来ています。
人間はひとりで生きるより、仲間と共に生きることを選んできた生き物。赤ちゃんは泣いたり声を出したりして大人に応えてもらうことで安心を学びます。話して反応をもらえることは自分の存在を世界に投げかける行為であり、生きるうえで欠かせないエネルギー源でもあります。
声に出すことで心が落ち着き、言葉にすることでモヤモヤが整理され、相手と響き合うことで「私はひとりじゃない」と感じられる。話すことは、存在を確かめる行為でもあるのです。
「聞いてほしい」という願いには、さらに深い意味があります。
それは、存在を承認されたい気持ち。感情を分かち合いたい欲求。孤独を和らげたい願い。誰かに耳を傾けてもらうことで、「私はここにいていいんだ」という安心感につながり、聞いてもらうことは「あなたの存在は大切だよ」というメッセージになります。
「話を聞いてほしい」という欲求は、存在の承認と心の共鳴を求める行為。話している内容そのものより、「受け止めてもらえている」という体験の方が大切だったりします。
ただ話すだけでなく、受け止めてもらうことで人は「生きていていい」と実感できるのです。
ここで重要になるのが「共感」です。
心が不安で、否定されることに耐えられないとき、「そうだよね」と並んでもらうことが、安心の土台になるからです。共感は、ただの情報のやり取りを「心と心の触れ合い」に変える力を持っています。ただ聞かれるだけでも気持ちは整理されますが、共感があると「私は理解された」と感じられて、安心感がぐっと強くなります。
相手の共感の言葉や表情を通じて、「ああ、自分はこう感じていたんだ」と気づきます。共感は自分の鏡にもなる相手の鏡にもなる行為です。共感は「あなたと私は違う存在だけど、響き合える部分があるよね」という体験は、信頼や絆の土台になっていきます。
安心を深め、孤独を溶かし、自己理解を助け、そして絆を育んでいく。
共感があることで、聞いてもらう体験は「救い」に変わるのです。
人は弱さを抱えているからこそ、話したくなる。聞いてほしくなる。
そして弱さを分かち合うことで、孤独がやわらぎ、つながりが生まれる。
心が守られることで初めて、人は次の一歩に進むことができます。
弱さは欠けたものではなく、むしろ人と人をつなぐ「ちから」そのものなのです。
弱さから生まれる「信頼」
信頼とは不思議なもので、力強さや完璧さからではなく、むしろ「弱さ」を差し出すところからより深い信頼につながっていきます。
「私は大丈夫」「問題ない」と、強さばかりを見せていると、相手は安心できても、心の距離は近づきにくく、表面的には尊敬や憧れを集められても、深い信頼にはつながりません。
「この人も同じ人間なんだ」という共通点が見えないと心を許し、さらけ出す勇気は持てないもの。強さだけでは築けない関係性もあるのです。
自分の弱さや不安を正直に打ち明けるとき、相手との間に一本の橋がかかります。
「実は私もそうなんだ」と共感が生まれ、相手もまた心を開きやすくなる。
その橋を渡り合うときに芽生えるのが、ほんとうの信頼です。
弱さを見せることは「相手に寄りかかること」ではありません。
むしろ「私は完全じゃないけれど、あなたを信じて委ねてみる」という選択です。
ここに生まれるのは、依存ではなく、互いに支え合う信頼の関係です。
ひとりが弱さを見せると、それがきっかけとなって相手もまた心を開く。
すると弱さは「欠点」ではなく「つながりを育てるエネルギー」へと変わります。
信頼は強さで固めるものではなく、弱さを循環させることで深まっていくのです。
弱さは恥ではありません。
それを見せ合えることこそ、関係を信頼へと導く力なのです。
依存と信頼の違いについて考える
1. 立ち位置の違い
依存は「自分を手放すこと」、信頼は「自分を持ったうえで相手を受け入れること」。
依存:相手に寄りかかり、自分で立つことをやめてしまう。
信頼:自分は自分で立ちながら、相手の存在を大切にして委ねる。
2. 動機の違い
依存は「不足の埋め合わせ」、信頼は「可能性の共有」。
依存:「自分ひとりでは無理だから相手に埋めてもらいたい」という欠乏感から生まれる。
信頼:「相手を信じることで一緒により良いものを育てたい」という選択から生まれる。
3. 関係性の質の違い
依存は「重荷」、信頼は「絆」。
依存:一方が重くなり、もう一方が支えきれなくなる。バランスが崩れやすい。
信頼:互いに弱さを見せ合い、支え合う。バランスが変化しても関係はしなやかに続く。
4. 結果の違い
→ 依存は「縮小」、信頼は「拡大」。
依存:自分も相手も疲弊してしまう。自立が遠のく。
信頼:互いの力が引き出されて、関係が深まる。自立が育つ。
職場での上司との関係を例に挙げるすると、
依存:「この人に決めてもらわないと何もできない」と判断を丸投げし続ける。自分で考える力が育たず、相手の不在が不安で仕方ない。
信頼:自分で考え行動したうえで「この方向で進めて大丈夫ですか?」と確認できる関係。上司が不在でも自分なりに判断しつつ、背中を預けられる安心感がある。
このように具体的な例を並べてみると、
依存=相手なしでは立てない状態
信頼=自分で立ちながら相手を信じて委ねられる状態
という違いがはっきり見えてきますね。
全体像は、
依存は「相手がいないと私は生きられない」。
信頼は「私は私で生きられるけど、あなたとならもっと良く生きられる」。
この違いは、とても大きいと感じます。
弱さと社会
社会という言葉を聞くと、多くの人は「強さ」を求められる場を思い浮かべるのではないでしょうか。
成果を上げること、評価を得ること、競争に勝つこと。
そこでは「弱さを隠すこと」が、生き抜く術になりやすいのです。
競争社会では「勝ったかどうか」「評価されるかどうか」が価値の基準になりやすく、自分の存在意義を、自分の内側ではなく 他人からの評価や比較 に依存してしまうことになります。「自分は上か下か」という軸で安心を測るようになり、これは一見「自立しているように見える」のですが、実際は 他者を基準にしか立てない依存の形なのです。
さらに、「負ける=取り残される」という恐怖があると、他者の目や集団のルールにしがみつきやすくなり、結果として「自由に生きているつもりで、依存してしまう」状態になってしまいます。
このように、競争社会は「依存の構造」を生みやすい社会といえます。
でもそれは「弱いから依存する」のではなく、社会の仕組みそのものが 人の心を外側に依存させるようにデザインされているとも言えるかもしれません。
競争社会は、私たちの存在価値が「他人との比較」によって測られがちなため「弱さを見せれば取り残される」「評価されなくなる」という恐怖がつきまといます。
結果として、人は自分の弱さを抱え込み、他者に依存する構造に追い込まれてしまうのです。
一方で、弱さを分かち合える場に身を置くと、不思議なことが起こります。
「あなたはそうなんだね、私もそうだよ」という共感が広がり、孤独が薄れ、相互に支え合う関係が芽生える。そこでは競争による分断ではなく、弱さを基点にした新しいつながりが生まれます。
そこにある社会は、強い個人の集合体ではなく、弱さを抱えた人同士のつながりが網の目のように広がっています。
一人が弱さを見せ、それを受け止める人が現れる。その循環が広がることで、社会はしなやかさと温かさを取り戻します。
強さよりも、正直さが人を惹きつける
かつて「立派な人」とは、弱音を見せず、他人に頼らず、いつも前を向いて突き進む人のことでした。けれど今、「この人の言葉が胸にしみる」と感じる瞬間は、むしろ、誰かが正直に「つらい」「しんどい」と打ち明けてくれた時ではないでしょうか。
それは、社会の中で「強さ」の定義が変わってきたということにつながります。。 かつては「完璧であること」や「動じないこと」が理想とされましたが、今は「傷つけられることを恐れずに本音を語れること」や「ダメな自分を受け入れること」に、別の強さが宿ると気づく人が増えてきています。
冒頭でご紹介したように、自分の落ち込みや不安をシンプルに綴るSNSの投稿にたくさんのリプライがつき、拡散されることがありますよね。それは「かわいそうだから」ではありません。むしろ、誰かが自分の心の奥にある不安を代弁してくれたような、そんな共鳴が起きているのではないでしょうか。「大丈夫じゃない」と口にできる人は、自分の感情と向き合う力を持っています。そしてそれは、他人にも「あなたのままでいていいんだよ」と静かに伝える行為でもあると感じます。
逆に言えば、いつも元気で、完璧にこなしている人にこそ、今の時代は少し警戒すら覚える人もいます。無理していないかな? 本当は疲れていないかな?人はもう、「強さの仮面」に憧れていないのかもしれません。
「強さ」とは、「正直さ」を持つことこそが現代における新しい強さ。私たちはそのことをようやく直視できるようになってきているように思います。。
社会は成熟し、時代は共創社会へ
私たちが生きてきた社会は、長い間「強さ」を土台にしてきました。
勝つこと、成果を出すこと、欠けを隠すこと。
けれど、その在り方は多くの人に孤独と依存を生み出し、本当のつながりを遠ざけてしまった、ということも否定できません。。
弱さを隠さずに差し出すことは、勇気のいる行為です。
「笑われないだろうか」「見放されないだろうか」という恐れがつきまとうからです。
でも、その一歩を踏み出してみると、思いもかけなかったことが起こってきます。
「ここは私が苦手だから、助けてもらえる?」
「その代わり、私はこれを担うよ」
そうやって支え合うことで、一人では到底できないことが実現していきます。
1+1が、3にも4にもなる瞬間です。
弱さを認め合う関係は、依存ではなく信頼。
そこでは「あなたがいるから私は挑戦できる」「私がいるからあなたも安心できる」という循環が育まれます。
その循環のなかから、新しい発想や文化、価値観が自然に生まれていく。
これこそが「共創」です。
弱さは、私たちを無力にするものではありません。
むしろ弱さこそが、人と人をつなぎ、新しい社会を創り出す源なのです。
弱さのちから。
それは私たちが未来を紡ぐための、いちばん人間らしいエネルギーなのかもしれません。
弱さでつながる共創社会の特徴をここにまとめます。
1. 評価よりも承認
成果や勝敗でなく「あなたがいること自体が大切」という承認がベース。
弱さを出しても切り捨てられない安心感がある。
2. 欠けを持ち寄る
強みを競うのではなく、「自分はここが苦手」「助けてほしい」と言える。
その欠けを埋め合うことで、ひとりではできないことが実現する。
3. 依存ではない、信頼
強者にしがみつくのではなく、お互いに弱さを差し出して支え合う。
「あなたがいるから私は安心して挑戦できる」という関係。
4. 創造が生まれる土壌
競争からは「勝ち負け」が生まれるけど、共創からは「新しい可能性」が生まれる。
弱さを分かち合える土壌は、想像力と創造力を解放する。
私たちの先祖は、なぜ群れで生きていくことを選んだのか。
それは、弱いことを認めたから。
強いリーダーが引っ張る時代から、個人が意思をもってつながる時代へ。
それは、一人ひとりが自分の弱さを知り・認め、自分の足で歩く覚悟をするところから始まります。
(はづき/認定講師・エンパサイザー)
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