新しい時代をどう生きようか?(こりつときょうそうとわたし)
- エンパシー協会 日本
- 1 日前
- 読了時間: 8分

私はウソつきである。
牛乳をこぼしたのを妹のせいにする、水泳のタイムをちょっと盛って申告する、本当に進みたい進路を我慢して進学先を選ぶ。
本当にたくさんのウソを積み重ねながら生きてきた。
今でも話を盛ったり、辛いのに平気な顔をしたりは日常茶飯事である。
それは、お父さんとお母さんは「できの悪い子はいらないはず」と思っていたから。
学校でも職場でも「役に立たない私は淘汰される」と信じていたから。
自分のものではない評価で生きていて、それの評価が自分のすべてだと思っていた。
それが私の「生きづらさ」だった。
今でもその片鱗は私の心の奥深くに突き刺さったままだ。
この「生きづらさ」を抱える人は増えていて、昨今はより深刻化しているように思う。
いじめ、不登校、精神疾患の増加や自殺率の増加、すべての年代でこの社会での「生きづらさ」を抱えている人が多いと感じる。
いい言い方をすれば、それを表現できるようになったからこそ、社会現象として起きているのだと言えるだろう。
私自身、子どもの引きこもりを経験し、自分を毒親だと攻め、両親を毒親と呪った時期もあった。
誰も悪くないと思えたのはつい最近のことだ。
コミュニケーションが好きだけど嫌いな私が「疲れない共感」を学び、自分を見つめ、自分の感情に、人生に責任を持つ覚悟を得た先にあったもの。
私は「このままの私で存在していいんだよ」と言ってほしかったんだ。
私は評価から「自由」になりたかったんだ。
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<競争と孤立>
私たちは長い間、「強くならなければ生き残れない」という価値観の中で生きてきました。
社会では成果を求められ、学校では比較され、人間関係の中でも「キチンとしていること」が関係の条件になりやすい社会。
不安を見せないこと、不安にさせないこと
迷わないこと、頼らないこと
人に迷惑をかけないこと
そうした“強さ”が、大人になる条件のように語られてきました。
けれど、ちょっと立ち止まって考えてほしいのです。
近年、驚くほど多くの人が「生きづらさ」を抱えている。
言葉では表現できずに誰かを攻撃することで発散したり。
「助けて」と言えず不登校になったり。
SNSでつながっているはずなのに孤独を感じたり。
誰かと比較し自分の価値を見失ってしまい体が動かなくなったり。
「ちゃんとしなければ」「迷惑をかけてはいけない」と思えば思うほど、心は疲弊していく。
その背景には、「競争」と「孤立」を土台にした社会構造があるのではないかと思わずにはいられません。
<競争社会が生み出す孤立>
ここで強くお伝えしたいのは、競争そのものが悪いわけではないということです。
競い合うことで技術は進歩しますし、努力する力が育ちます。
競争は人が社会の中で成長するためには欠かせないものです。
けれど、競争が”社会全体の前提”になったとき、人は常に「比較」の中で生きることになってしまうことになり、この状態には危機感を感じます。
誰が優れているか。
誰が成果を出しているか。
誰が評価されているか。
誰が自分にとってメリットがあるか。
その視線にさらされ続けると、人は次第に「ありのままの自分」ではなく、「評価される自分」を演じるようになってしまいます。
すると、人間らしい揺らぎを見せられなくなってしまう。
不安を隠す
失敗を隠す
助けを求められない
本当は苦しいのに苦しいと言えず、「大丈夫」と言ってしまう
そうやって人は、自分自身からも他者からも、心も気持ちも切り離されていってしまう。
「誰にも本当の自分を見せられない状態」。
これが現代に象徴される「孤立」なのかもしれません。
理解しづらいことですが、人に囲まれていても孤立することはあります。
職場でも、学校でも、家庭の中でさえ、孤立は起こりうるのです。
孤立した心は、自分を保つために知らず知らずに人から与えられる安心を求めます。
評価への依存
承認への依存
比較し相手より上にいる安堵
競争社会は一見「自立・個立」を促しているようでいて、実は人を外側の評価に依存させやすい構造を合わせ持っています。
<孤立と個立は違う>
孤立とは、つながりを失った状態。
一方で個立は、「自分として立っている状態」です。
個立している人は、一人でもいられるけれど、誰とも関わらないわけではありません。
むしろ逆で、自分という輪郭を自分の中に持っているからこそ、他者とも健全につながることができます。
孤立している人は、「嫌われたくない」「見捨てられたくない」という不安から、相手に合わせすぎたり、自分を押し殺したりし勝ちになってしまいますが、個立している人は、違いを認めながら関係を築くことができます。
「私はこう思う」
「あなたはそう思うんだね」
人との違いが、関係の破綻に直接つながることがありません。
自分を閉ざしてしまう孤立と違い、個立とは自分に心を開いた先にある自分を開くことなのではないかと思います。
<境界線という優しさ>
個立を語るうえで欠かせない、「境界線」という考え方にも触れておきます。
境界線とは、「ここまでは自分、ここからは相手」という心の輪郭のこと。
線を引くと聞くと冷たいと思われがちですが、長く関係を続けるためには必要なことで、相手と自分に対する優しさと言えると思います。
例えば、誰かがつらい話をしてきたとき。
「それは苦しかったね」と受け止め共感することは、人を救う力になります。
しかし、境界線が曖昧になると、聞く側は疲弊し、話す側は依存しやすくなります。
聞き手は相手の感情を背負い込む必要はありません。
「あなたを大切に思っている。でも、あなたの感情を代わることはできないし、同じ辛さを引き受けることはできない」という線引きが、とても重要なのだと感じます。
相手の感情に飲み込まれるのは共感ではありません。
本当の共感とは、「理解しようとする姿勢」であり、それが伝わることです。
私と相手の間には見えない境界線があり、お互いの領域を守ることが優しさであり、尊重になるのです。
<弱さは、人をつなぐ力になる>
強いことや優位に立つことが美得な社会では、私たちは「弱さ」を、欠けたもののように感じやすくなります。
しかし、弱さとは、人間の不完全さであり、揺らぎであり、生きている証でもあります。
人が深くつながる瞬間を思い返してみると、多くの場合そこには「弱さ」があるのではないかと思います。
「実は不安だった」
「助けてほしい」
「本当はつらかった」
そうした言葉が交わされたとき、人は初めて心を近づけることができるのではないでしょうか。
強くて完璧な人には近づきにくい。
けれど、不完全さを隠さずに打ち明けてくれた人には「同じ人間なんだ」という安心感さえ感じます。
弱さは、人を切り離すものではなく、むしろ人を結び直す力を持っているのです。
ただしそれは、「依存」とは違う。
依存は、「あなたがいないと私は立てない」という状態です。
しかし、健全なつながりは、「私は私として立ちながら、あなたと共に在りたい」という関係です。
そこにはお互いの自由があり、自由があるからこそ、人は安心してつながれるのではないでしょうか。
<共生という新しい社会のかたち>
これからの時代に必要なのは、「強い個人が競い合う社会」ではなく、「不完全さや弱さを抱えた人同士が共に生きる社会」なのではないかと思います。
それが、共生・共創という感覚だと感じます。
共生は、ベッタリ依存することでも、完全に切り離された個人主義でもありません。
違いを知り、認め合いながら、共に在ること。
足りない部分を自然に補い合うこと。
支える側と支えられる側が固定されないこと。
今日は私が支える、明日はあなたに支えられる。その循環が自然に生まれる関係。
そこでは、「役に立つかどうか」だけで人の価値は決まることはない。
弱っている時期があってもいい。
立ち止まる時間があってもいい。
助けを求めてもいい。
そういう安心感のある社会では創造性を恐れることなく示すことができます。
新しい発想や文化は、「未熟さや弱さ」や「揺らぎ」を安心して見せられる場から生まれることが多いものです。
人は、恐怖の中では挑戦できません。
しかし、「失敗しても大丈夫」と思えるとき、本来の力を発揮することができます。
共生とは、ただ優しいだけの社会ではなく、人が本来持っている可能性を開いていく土壌なのだと思います。
<孤立から個立へ、競争から共生へ>
私たちに必要なのは、「誰より強くなること」ではなく、「不完全さを抱えたまま共に生きる力」です。
それは、社会の仕組みを変える話とも言えると同時に、一人ひとりの生き方を問い直すことにもなるかもしれません。
弱さを隠さないこと。
助けを求められること。
違いを認められること。
境界線を尊重できること。
そうした小さな小さな積み重ねの中に、新しい社会の芽は育っていくのではないでしょうか。
そしてその社会は、完璧な人が主導することによって作られるのではありません。
揺らぎや不安を抱えながらも誰かとつながりたいと願い、自分の弱さも相手の弱さも認め合いながら生きる覚悟を持った、私たち一人ひとりによって作られていくのだと思います。
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こうして言葉にしてみて、思う。
こんなの、
きれいごとかもしれない。
夢物語かもしれない。
でも、見てみたい。
こんな社会を、目指したい。
私は、このまま、生きていこう。
ありのままで、生きていたい。
(認定講師・エンパサイザー® はづき)



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